『延喜式』神名帳に「国中神社二座」と載る式内社の古社で、明治維新までは国中大明神として近郷の崇敬を集めた。 「国中」の社名は越前一国の中央にあることから起こったと云われる。

  国中大明神は元来、北中津山村(国中)に鎮座し、明治十二年(1879)郷社に列せられたが、南中津山村(中津山)では明治十二年國中神社が村社となり、同十四年郷社に進み、同四十年従来より当村にあった松葉神社神明神社を合祀した。


国中神社(国中)   國中神社(中津山)
巻の五
◆福井県越前市国中町五八−二七◆


郷社 国中神社(くになか)

福井県今立郡南中山村北中津山区 第五十八号宮の下二十七番地鎮座

由緒  由緒ある祭典  神社に関する事項  口碑伝説  参考語録

祭神

未詳一説に

越比古神(こしひこのかみ)  越比女神(こしびめのかみ)

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
由緒

 当社は、一国の中央にありし故に国中を社号となし、越の国魂の神を祭り『延喜式』神名帳所載の社にて、国内神名帳には従一位国中大名神とあり、往昔より国司郡宰信仰し、神地を寄付し社領七十町に余り、当郡第一の社なりしが、延元・天正数度の兵火にかかり、社殿摂末社に至るまでほとんど回禄にかかる。国中神社鳥居

 旧社地は、字三十八社と唱えて今に礎石を存せり。 ただし、本宮のみは災厄をのがれしを以て、神像を始め千有余年を経たる古物など現存して往時の盛を語れり。

 かくの如く、古来連綿たる式内の正社にて、中山郷十余箇村の総社氏神と崇敬し、郷中人民の信仰あつかりしが、旧敦賀県のとき村社の定められしを、明治十二年(1879)郷社に列せられたり。


 明治四十二年、西庄境区村社国中神社祭神「彦火火出見尊」由緒不詳の一社を合祀せり。
例祭  十月十一日   神紋  五三の桐

建物    本殿  鉄筋コンクリート造 銅板葺 流造    拝殿  鉄筋コンクリート造 銅板葺 流造

社宝   獅子頭二頭  猿田彦面  三又剱  狛犬一対  国中の要石

特殊神事  獅子渡  惣田正月十七日講

本殿造営の沿革  不詳 

由緒ある祭典

獅子渡


 当社に、往昔より泰澄大師の作なりと唱える獅子頭二頭、猿田彦命の仮面一個及び三叉剱一振あり。 貴重の宝物として蔵置し、六日獅子と称し、例年の大祭前八月六日これを社頭に出し、神酒を供す。
国中神社 拝殿
 夕方、北中津山村の若者ら、軽装足袋はだしにて各々種々の鳴物及び松明を手にして社頭に集まり、一人獅子頭を冠し、笛太鼓に和して舞い。 やがて獅子は失踪を始めんとするや、多くの若者鳴物を鳴らし、松明を打ち振りその前面を遮りこれを堰き止め、獅子はますます荒れ狂い、しばしこれと争い、遂にこれを破りて村内に駈け入る。 若者ら大声疾呼してこれを追い、あるいは舞い、あるいは疾走して村内を巡る。 終りて再び社頭に集まり、高張松明を点じ行列を整え新堂村に向かえば、同村の若者及び氏子一統は、村境に出迎えをなし、受け渡しを行う。

 該村の若者これを冠し、舞い、疾走すること北中津山村の如くし、村内を巡り終わりて次村に向かう。 赤坂、東・西庄境、南中津山の各村順次かくの如くし、十日夜当社に奉還す。

 文明年中以来、大庄屋各村の村役及び氏子総代等連署して規定を設け、又は改定したる書類数通を現存せり。 以て、古来この神事を重視したる一班を知るにたれり。
宮の構(ごぼう構)

当社北中津山の氏子にては、往古より「宮の構」と称するものあり。 正月十七日を以て行うの例なれば、これを俗に「十七日構」とも称せり。


 村内、いささかにても土地を所有する男戸主に限り名簿に登録せられ、順次一人宛当番となり、例日当番の家に神座を設け、名簿登録者一同を召集し、神饌を供し、拝礼神前に着座し、当年神社の諸行事及び経費の拠出法を議定し終えて、酒食の饗応を受くるを例とせり。 そして当日の費用は、すべて神田の所得米によって支弁するを以て、参会者は神饗を賜うものとなす。

 総ての調度は、一切女子の参助を禁じ、礼服着用に非ざれば列席を許さず。 その時刻集合通知のごときも、当番主人礼服着用して各戸前に立ち、「ご準備よろし」と触れ回る。 またここに奇なるは、当日の膳部は牛蒡一式の調理を用い、酒一杯、飯一椀に限り盛替えを忌み、大杯大椀を用ゆるの例なりとぞ。

 故を以て当村氏子は、当講に参加し能わざるを大恥辱とし、古来より、全く土地を所有せざるものなしと云う。
神社に関する事項

国中の要石

 
当社大門路傍に要石と称する石あり。 「越前名蹟考」にもその記事見ゆ。敷説年代詳かならず。
 一国の正中を標榜せるものなりと言い伝う。

 当社は一国の中央に位するところから社号を国中と称えられた。 社宝 「国中の要石」 は太閤検地の際、日本国の中心として定められた地点という。 越の国魂の神を祀り、延喜式神名帳には従一位国中大明神と記載されている。 その昔国司郡宰大いに当社を信仰し数多の社地を献じ、その社領実に七十町余りあって、当郡一の大社であった。要石は柵の中

 当社の付近字三十八社と称する一地域は、これ旧社地にして元拝殿の所在地なり。 昔時、仏教盛なる頃、僧泰澄、堂塔伽藍を此の地に建築し、摂末社と称する堂社三十八あり。 故に此の名あり。正面大門は北中津山村の中央を貫き、一直線の大路は庄境に達し、中山郷十余村即ち、川島新堂落井松成赤坂両庄境山室野岡両中津山を氏子とし、傍らには別当宗匠院を始め、数個の社坊ありてこれに奉仕し、すこぶる隆昌を極めたりしかど、天正年中の兵乱に堂塔伽藍社坊を始め、旧記宝物に至る迄総て火災にかかり鳥有に帰せり。 しかれども、御本宮のみは此の地を距たれば災厄を免れたるにより、罹災堂社のご神体はことごとく奉遷合祀したりと伝う。

 現在、字三十八社には、山門鳥居その他の礎石あり。 また村内には大門、立別当、四屋敷、神田、斎田、御福田、机田、御油田、五月田、九月田、霜月田、等の地字を存せり。

 そして、当社の別当職たりし宗匠院は、その後新堂村に移転し、文明年中にいたり、当時の院主永興は深く蓮如上人に帰依し、遂に浄土真宗に転じ、寺号を古墳山永林寺と改め、当社と関係を絶つに至れりという。 今その永林寺に保存せる天正年間の禁制及び当社に保存せる亨保年中の社寺書状上書は、沿革の一端を見るにたれり。

獅子頭に関する伝記

 北中津山(国中)の獅子頭はこれを泰澄大師の作なりと伝う。 はじめに服間村市野々にありたるものにして、市野々の宮なりとも言い、或いは又豪農奥村善右衛門なりとも言う。 同家は、水間谷の旧家にして貴重なる品を多数所蔵せしなり。 主人 大水の時流してくれ」 との夢の告げを受くること再三なり。 遂にこれを流せりと。 市野々区の西方小高き所に御面屋敷(堂屋敷とも言う)と称する地あり。 これすなわち獅子頭を祀し所なりと伝う。

 或る年洪水あり。 国中区茂右衛門なる者、橋の流失せん事を恐れてこれを防ぎに行きし際、一つの獅子頭 味噌槽の輪にかかりありたるを、早速拾い上げて家に持ち帰り壇を作りて安置し祀れり。 朝夕礼拝する毎に壇上より転がり落ちあるを見て不思議に思い、これを隣家の助右衛門に預くるに 清右衛門に行きたし」 との夢の告げ三夜も続けり。 恐れてこれを清右衛門に託せん為、翌朝、この次第を物語りたるに、同じく清右衛門にもその夢の告げあり。 助右衛門等依頼状を添えて清右衛門に預くる事となれり。 その依頼状は今なお見延家にあり。 かくて同家土蔵内に安置す。

 その後、村若衆は村有のものなれば清右衛門にのみ預け置く必要なしと称し談判す。 清右衛門も特に気を遣いて鄭重に遇し居るものなれば、二度と預からずと言明して、村内頭分の預かることとなりたるも、種々の異変起こり三日の後、村若衆再び持ち来り土蔵の玄関に放置し帰る。 再び土蔵内に収め今に安置す。

 獅子渡しの神事は、古くは三里山の周囲を廻りたる由なるも、次いで本村内及び新道、赤坂となり、現在は北中津山区(現 国中)のみを廻る事となれり。 六日に土蔵を出でられ、十日十二時過ぎ再び土蔵内に帰還さる。 或る年庄境において、かがり火にて耳を折る。 その燃ゆる時、馥郁たる幽香あり。 その材料の栴檀(せんだん・香木)なること始めて解れりと。 清右衛門大いに勿体なしと彫刻師を招き、土蔵においてこれと少しも違わざるもの一個作らしめ、この獅子頭は暴れること無きよう厳命し今に至る。


国中神社(地蔵)
村社 国中神社(遙拝所)

    福井県今立郡南中山村西庄境第九号三番地鎮座

祭神   彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
例祭  10月1日  神紋  八つの輪宝

由緒

 その昔、田中地蔵と称せしを、明治維新後神仏合祀不許可のため国中神社と改称せり。 その後、明治四十二年一月十五日郷社北中津山神社に合祀す。 昭和二十一年分離し、現在社地に還座す。


 社殿は間口二間、奥行九尺にして、もと萱葺になりしが、合祀の翌年耳葺きとなし遙拝所となす。
−今立郡神社誌−

國中神社(中津山)

  神社  話題  登山  今立町