巻の四
◆福井県鯖江市舟津町一−三−五◆


県社 舟津神社(ふなつ)

福井県今立郡舟津村上鯖江区 第十九号大山三十三番地
                      第十号宮の北十八番地鎮座



祭神

大彦命(おおひこのみこと)   孝元天皇(こうげんてんのう)    素佐鳴雄命(すさのおのみこと)

相殿

大山御板神社(おおやまみたのじんじゃ)   祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)
由緒

 祭神大彦命、孝元天皇の皇子に座し、崇神天皇の十年(前87)九月丙戍遡り甲午勅を奉じて、北陸道に下向し給い百姓を鎮撫して功あり。
 成務天皇四年
(134)九月十日、命五世の孫入命に詔して高志舟津郷に勅祭したまい、土地の郷名により社郷を船津神社と称す。 この社の位置、往古は今の大門の先東の田の中に勧請せしを、寛保二年(1742)七月今の社地にかえし、旧社地を墾田となす。(境外所有地これなり)
 今、田地の中に一塚を存し、上に禿倉を立て古宮と称せり。 又、相殿大山御板
(おおやまみいた)神社祭神猿田彦大神は大彦命進軍の節、神勅ありて大山の峰に楯を三方に建て社形としてここに猿田彦大神を祭り、副将軍忍男彦を神主に定む。 社司橋本家の祖先すなわちこれなり。
 然るにこの社、寛仁二年
(1018)兵火にかかりしを以て、船津神社に合祀す。明治八年(1875)五月五日県社に列せられ、同十四年四月福井県において境内へ禁制札建設せらるる。


例祭  九月十七日   神紋 三光・三巴

建物   本殿(前口五間、奥行五間) 木造 柿葺 五間社流造舟津神社鳥居
      拝殿(前口六間、奥行二間)  木造 瓦葺 切妻造

      鳥居 四

      神撰所  水舎   社務所

社宝  高麗狗一対、茗荷悪尉面一体、織田信長所用小鼓一個、

文化財指定    県 木造両部鳥居    市 太鼓樽

           国史跡  王山古墳群

特殊神事  左議長 輪くぐり 禊(みそぎ)

本殿造営の沿革

 現在の本殿は文化二乙丑年(1805)、鯖江藩間部氏の造営に係れり。

 本殿は、県内最大規模の五間社流造。 背面中央三間庇付。 文政三年(1820)再建。 昭和六十三年(1988)、当初の柿葺に葺改められた。 拝殿は、天保四年(1833)再建の割拝殿であったが、平成三年(1991)九月二十七日に襲来した台風十九号により倒壊し、再建準備中。 かつて境内の内外は「舟津八景」として知られていた。

境内  壱千弐百参拾壱坪 宮有地第一種

境内神社

八幡神社  祭神

誉田別尊 金山彦尊 伊邪那岐尊 国常立尊 大日霊尊 爾爾杵尊 大物主命 菊理姫命

宇賀魂命 豊受姫命 海童命 熊野早玉命 秋津彦命 秋津姫命 崇徳天皇

由緒

 文徳寛録嘉祥三年十一月甲戍塑乙未、越前国金山彦神に神階従四位下を加うと見え、勧請は垂仁天皇(前29〜70)、御宇国造伊奈部に詔を奉じて金山彦神を三太神境に祭ると伝えるものこれなり。 往古は別宮なりしを今八幡神社に合祀す。 又、誉田別尊は永享十二庚申年(1440)八月十五日勧請す。

 明治四十四年(1911)四月十日、境内神社熊野神社祭神、伊邪那岐尊熊野早玉命由緒、元久二乙丑年(1205)波多野時光創立す。 同金比羅神社祭~ 崇徳天皇大物主命由緒、寛政二庚戍年(1790)鯖江藩士鈴木蔵人讃岐国象頭山に七日間参籠して神□を受け、船津神社境内に祭ると伝う。
 同疱瘡神社祭神 秋津彦命秋津姫命海童命事由緒不詳、同熊谷稲荷神社祭神 宇受気姫命由緒不詳、明治十一年(1878)十一月、鯖江士族奥村義男邸内より船津神社境内に移す、の四神社を本神社に合祀す。

 明治四十年(1907)十月三十一日、同村同大字無格社熊野神社祭神 金山彦命由緒、垂仁天皇の御宇、勧請せりと伝う僧泰澄帰依し、熊野神社と改称せりとの伝説あり。 往昔度々兵乱の為に破却せらるるに依りて、今の船津神社境内に移転せりしを、明治元年(1868)再び村民の請によりてこの地に移転す。 同大字無各社 日吉神社祭神国常立尊由緒不詳、同大字無各社 土輪神社祭神爾爾杵尊由緒不詳の三神社を合祀す。

 明治四十一年(1908)一月十一日、同郡新横江村五郎丸無各社 ~明神社祭神 大日霊尊由緒不詳を合祀す。
 明治十一年
(1878)十二月二十八日、同郡同村東鯖江無各社 白山神社祭神 菊理姫命由緒延賓七年(1677)二月五日、勧請同境内稲荷神社祭神 宇賀魂命由緒、安永六年(1777)十一月一日。 勧請従來当村中屋敷鎮座の所、明治十九年(1886)一月十六日、当境内に合祀す。

社殿  前口 一間三尺   奥行 一間三尺

供御田

明治四十四年(1911)度より、今立郡舟津村鯖江第十号宮ノ北一番の地籍に七畝歩の御供田を設け、篤農者を選びて耕作せしめ、その成熟したる稲穂は神饌に供するの外精撰して改良種子となし、宝費の初穂料を以て氏子の希望者へ分興し、農事の改良発達を企画せり。

神社に関する事項

県重文 舟津神社赤鳥居

 明神鳥居。 木造朱塗。 柱下部笏谷石製。 銅板葺。 高さ4.2b、柱中心間隔3.4b。
 安永3年
(1774)五月鯖江藩主間部詮茂(1739〜86)奉納。 棟梁は鯖江藩作事頭竹内次郎兵衛。 同年四月十九日作事着手。 五月十三日竣。 十五日殿様御社参あって御検分。 「舟津記録抄」「間部藩日記」に間部家奉納・修理の関係記事が散見し、「藁座」鳥居と見える。 藁座とは根包から発した名称で、柱の下部を土中深く埋め、これに木造鳥居をいわゆる追い掛け継ぎにして帯銅で締めてある形式を指しているのであろう。

 本鳥居は修理を要する際には、鯖江藩寺社奉行にその旨を届けると、作事方より来社して屋根葺替等をすることになっていた。  天明五年(1785)、寛政十一年(1799)に屋根修理があり、次いで文政六年(1823)積雪転倒により解体修理されている。

平成十年四月二十三日本殿と共に福井県指定有形文化財に指定。

県重文 舟津神社大鳥居

舟津神社大鳥居

 寛政十二年(1800)再建の木造両部鳥居。 枠差鳥居ともいう。 鳥木・笠木の上に屋根を付ける越前型の典型的なもの。 欅材。 板葺。 総高六.五b、柱中心間隔四.七七b。

 江戸後期に於ける白木・木造鳥居の現存遺構は少なく、建築的意匠も優れ、再建・修理関係文書も大量に遺されていて、年代・棟梁名その他も明らかにでき貴重である。

 寛政七年(1795)四月再建の決定をみ、以来五年の準備の末、同十二年釿立、七月三十日棟揚、八月二日竣功した。 棟梁は小黒町村大工重兵衛等三人棟梁、木引きは鯖江町木屋市平。 文化元年(1804)二月二十日楊揚賀祭・槌供養斎行。

 天保十年(1839)、安政二年(1855)、昭和三十三年(1958)等に修理され、ことに安政時のは大修理で十分の一板図も遺されている。 昭和六十一年三月二十八日福井県指定有形文化財に指定。 平成二年十二月解体・復原修理、三年九月十九日竣功した。

舟津七清水

 正暦二年(991)夏、大に日照りす。 七郷の村長等祈雨七日に及び、功験なし。 時に神詠を夢みすなわちこれを書して七所に埋めむ。 忽然として清水湧出せり。

王能清水(在瓜生村)、天洲語江(在五郎丸村)、壷(失所在)、 小浚清水(在定次村)、黒清水(在鯖江)、長泉池(在長泉寺村)、鳥山清水(在府中)
即ちこれなり。

◆ なお、古くから舟津七C水が存在していたが、「越前・若狭の伝説」「越前国絵図記」「鯖江志」 などによれば、それらの所在地は若干異なる。
「舟津社記」では
 玉野C水(瓜生)、天管江(五郎丸)、長泉池(長泉寺)、許佐羅江(定次)、黒久C水(上鯖江)、天照江(西鯖江)、坪我C水(柳原)
となっている。 ◆

三太山

御板山、遇山、王山とも称し、いま山野域は上野ヶ原という。神社の背後にあり。 東西六十間、南北九百三十間、太平記に上杉、畠山配流の時、上野ヶ原を過ぎてとあるは此処にして、中世以降戦場となり又著名の歌枕となれり。

口碑伝説

 当社の祭神大彦命、勅命を受けて越の国に来たり給うや。 角鹿津(敦賀)より御旗を掲げ八田(今、丹羽郡にあり)を経て舟場より東に渡らんとし、航路あやうかりしかば、棹を投じて神に祈り給い(棹谷は丹羽郡にあり)塩垂が老翁の教えによりて深江の地に向かい給い、和那美川にて安伊奴彦の嚮導を得て、遂に深江の国に着し給えり。 ここに山あり、命登臨し給うときにまた塩垂の老翁にめぐりあい給う、故にこの山を逢山という。

 老翁、命に教えて曰く、国の元凶名は石熊国樫又山襲要鬼ことごとく族を集め、命を討ち奉らんと計る宜しく之が備をなしたまうべしと。
 命問いたまはく。 汝は誰ぞや、答えて曰く。 吾は猿田彦なり、汝命の忠誠を嘉みし此処に来たり斯く教うるなり。 命、我言を信じたまいて吾を此処に奉りたまいなば、剱に血塗らずして元凶たちまち滅び国平らかならんと告げ、たちまち失せたり。
 命その教えに従い、三枚の盾を用いて逢山の峰に御社形を造り、国向の印璽(いんじ)を神宝となし、猿田彦神を鎮め斎き奉りたまう。

 すなわち当社の相殿なる式内大山御板神社なり
(延喜式神名帳・大山御板神社)。 十一年九月、賊ことごとく族を挙げて来り迫る皇軍利あらず、命帯せ給える御剱を投げ三太神を祈りたまえば、大空より佐波矢落ち来り賊の魁師を刺せり。 命更に残党を誅し更に進発したまうときに中臣の氏人歌いて曰く

            追い河の月の光のさやけくも 三太の舟津にあきかぜふきぬ

かくてこの歌を剱に添えて三太の大神に奉りたまい。 またこの年冬十月、神領御饌御贄所を定め忍男彦命を、国造を兼ねる神主と定めたまう。 命、北陸を経営して更に、奥羽の地を経て大和に旋り給う。 帝その功を賞して、大彦命を越の主となし、諸王子を国々の造に分かち封じ給える。
 中に大稲興命を更に深江の国造に任じ、その子屋主武雄神命を天神地祇の祭主となし、幾国安部柏原に居らしめたまう。

 後、その子素津乃奈美留命を改めて深江の国造となし、大山御板神社の神主を兼ねしめ、柏原より深江に移らしむ。 故郷の名を取りて姓を柏原と称す。

 尋いて成務天皇四年
(133)九月、当国造市入命(大彦主五世の孫)に勅して、此の舟津郷大山の麓に大彦主の神霊を勅祭せしめたまい、地名によりて舟津神社と称しめらるる。 なお、大山御板神社に孝元天皇を合わせ祀り、これを上宮とし舟津神社を下宮と称しめらるる。舟津神社拝殿

 かくして、男大迹皇子味真野に座せしときは更に尊敬あらせらる。 時々御参向ありて社を大神宮と称しめられ、御即位の元年(507)勅して両社を造営せしめらる。

 同二年三月二十二日、正遷宮の式あり。 同三年正月宮幣の事あり、降りて清和天皇貞観元年
(859)二月二十二日、神位正一位の極位を授け給い位田を添え給う。 なお上宮は、孝元天皇を左に猿田彦命を右となす。 下宮は、太彦命を左に金山彦神を右となす各勅使の旨に従うなり。

 延喜式によれば、名神の社として官弊に預かり、歴朝の御崇敬深く、また武将の尊崇も厚き、その後、寛仁三年
(1019)下宮焼失、仮に上宮に合わせ祀る。 応永二十一年(1414)に至りて朝倉義景下宮を造営し、同二十三年正遷宮ありしが、年を経て再び上宮朽頽す。 当時戦乱打ち続ける為、改め造営する能わず。よって下宮すなわち舟津神社相殿に合わせ祀る。 大彦命を中殿に、御板神社を左に、孝元天皇素佐鳴命を右とし、金山彦神は境内末社に斎ひ祀る。

 天正四年
(1576)柴田勝家の為に社領を没収せられ、社殿もまた鳥有に帰せり。 故に社殿を営み奉祀せしかども、祭典等所したがって陵夷せしが、享保六年(1721)間部氏鯖江に封ぜらるるに及び崇敬殊に深く氏神祈願となし、文化年(1804〜)には、社殿造営奉納あり(今の社殿)。
 往古、舟津神社即ち下宮の社地は、今、本社の東面一町余田の中に石祠有りはその遺跡なり。 現今の社地は寛保二年
(1742)七月の移転なりとす。 

  神社  話題  登山  旧今立町


−今立郡神社誌−