美保神社(みほ)

◆島根県八束郡美保関町大宇美保関六〇八番地鎮座 

御祭神
三穂津姫命 (みほつひめのみこと) 別号大御前左殿
事代主神  (ことしろぬしのかみ)  別号二御前右殿
三穂津姫命

 高天原の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御姫神にましくて、大国主神の御后神として、高天原から稲穂を持って御降りになり庶民の食糧として、広く配り与えへ給うた。 美保という地名はこの神の御名にゆかりありと古書は伝えている。

 三穂津姫命は高天原の斎庭の稲穂を持ち降って農耕を進め給うたので、当社には古くから御種を受ける信仰があり、安産守護の御神徳は特に著しい。
 稲穂は五穀の第一である米を意味するは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし生けるものことごとくの生命カを表現している。 従って大神は人間はいうに及ばず、一切の生物の生命力を主宰せられる大神である。 故に古人はその御種について、「これを頂いて帰り、時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯
(もち)でも粳(うるち)でも願望のものが出来る。・・・・・ 」 と感嘆しているが、田植後には農家の人達の農穣祈願のお参りが盛んであり、十二月三日の諸手船(もろたぷね)神事は一つに「いやほのまつり」ともいい、農穣感謝の意味もあって一般の参拝が頗る多い。美穂神社 拝殿・本殿

事代主神

 天照大神の御弟須佐之男命の御子孫で、出雲大社に鎮ります大国主神の第一の御子神にまします。
 天孫降臨に先だち天つ神の使の神が出雲にお降りになって、大国主神にこの国を天つ神に献れとお伝えになった時、事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をしておいでなされたが、父神のお尋ねに対し、この国は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣
(あをふしがき)をお作りになり、天逆手(あめのむかへで)を拍っておこもりになり、大国主神はそのお言葉通り国土を御奉献になったと伝えている。

 かくて事代主神は多くの神々を師いて皇孫を奉護し、我国の建国に貢献あそばされた。 又神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、国初皇続外戚第一の神にあたらせられ、なお古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。
 当神社古伝大祭である四月七日の青柴垣神事、十二月三日の諸手船
(もろたぶね)神事は、悠遠の昔、大神様が大義平和の大精神を以て無窮の国礎を祝福扶翼なされた高大な御神業を伝承顕現し奉るものである。

 事代主と申す御神名は事知主の義であって、すべて世の中に生起するあらゆる事を伝え知しめして、是非曲直を判じ邪を避け正に就かしめられる事の大元を掌り給う意味で、大神は実に叡智の本躰、誠(真言、真事)の守神と拝し奉る。 又大神を明神様・ゑびす様と申上げ、釣樟を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影を描いて敬い、漁業の祖神、海上の守護神と仰ぎ、水産海運の御霊験の広いことはあまねく知られて居る通りである。

 又当社に古くから伝っている波剪御幣(なみきりごへい)は大神の海上守護の神徳に因んで、山なす狂乱怒濤をも推し切って航行を安泰ならしめ給う霊徳を表現した御幣で、延いて水災火災病難等原因の何たるを問うことなく、狂乱障害を祓除し家内の安全家門の繁栄を守り給うとしてこれが拝授を願う篤信者が多い。
 又、経済商業に福運を授け給ふ神としての信仰は、今もいろいろ土俗に残り、商業の「手拍ち」は天の逆手の故事に起因すると申している。

沿革

 美保関は前に述べたように大神の御神蹟地であるばかりでなく、所造天下大神とたたへまつる大国主神が、その神業の御協力の神少彦名命をお迎えになった所であり、又その地理的位置は島根半島の東端出雲国の関門で、北は隠岐、竹島、欝陵島を経て朝鮮に至り、東は神蹟地、地の御前、沖の御前島を経て北陸(越の國)、西は九州に通ずる日本海航路の要衝を占め、更に南は古書に伝える国引由縁の地弓ケ浜、大山に接し、上代の政治文化経済の中心であったと考へられる。
 
 当神社は非常に古く此所に御鎮座になり、奈良時代已に世に著はれ、更に延喜式内社に列せられ、後醍醐天皇隠岐御遷幸のみぎり神前に官軍勝利、王道再興を御祈願になったと伝えるが、其後戦乱の世に軍事上、経済上の理由から群雄の狙うところとなり、遂に元亀元年、御本殿以下諸殿宇を始めとして市街悉く兵火のため鳥有に帰す。 吉川広家これを再興し日本海航路の発達と共に上下の崇敬を加え、明治十八年には国幣中社、明治二十一年に叡慮を以て御剣一口を御下賜あらせられた。

文化財

 現在の御本殿は文化十年の造営であって、大社造の二殿連棟の特殊な形式で、世に美保造又は比翼大社造等と申し国の重要文化財に指定されている。
 御本殿のかかる形式は文書によると天正年間にその痕跡が窺れるが、現在の整備せられた構造は文禄五年吉川広家が朝鮮にあって立願のため御造営をした時まで遡ることが出来る。

 拝殿以下は昭和三年の新営である。 当神社の御祭神は鳴物を好ませ給うと広く信ぜられて種々の楽器の奉納品が多く、そのうちの八四六点は美保神社奉納鳴物として、又諸手船神事に用いる諸手船二隻及び社蔵のそりこ舟一隻は、古代船舶の遣型を存するものとして共に国の重要有形民俗文化財に指定され、又隠岐、中海沿岸で漁業に使用せられたトモド船及び沖縄のサバニーは共に県の有形民俗文化財に、更に社蔵の古筆手鑑は県の有形文化財に指定されている。

末社・其他
○本殿、装束の間に奉斎する末社美穂神社大鳥居
○境内に奉斎する末社
神紋
  左殿は二重亀甲に渦雲、右殿は二重亀甲に左ミツ巴。 他に社紋として二重亀甲に三の字の紋も用いている。
〜美穂神社略記より〜
〜八束郡誌より〜
祭神
 現在の明細帳では、主祭神として右殿に事代主命左殿に三穂津姫命を祀り、配祀神として中央装束の間に大后社(神屋楯比売命・沼河比売命)・姫子社(媛蹈鞴五十鈴媛命・五十鈴依媛命)・神使社(稲脊脛)の三社を祀るとなつている。
 右殿・左殿・装束の間とは、本殿が左右の二棟から成り、それを横一棟でつなぎ、その下を装束の間といつていることによるものであるが、このうち装束の間の三社は、もともと境内の前庭にあったのを元亀元年
(1570)の兵焚に罹つてから本殿の方に遷したものであるという。
美穂神社拝殿
 左右両殿の主祭神の序列についてであるが、 神社神道においては、古来よりつねに左座をもつて尊しとしてきた。 事実ここでも通常には左殿の方を一ノ御前と呼び、右殿の方をニノ御前と呼ぶことになっている。 しかし神名列記となると、そのニノ御前たる右殿の事代主命の御名をまず掲げ、一ノ御前と呼ぶ左殿の三穂津姫命の方を次に唱へることになっているし、ときにはもっぱら事代主命の方をのみ唱へるふうさえなくはなかつた。
 しかし、こうした傾向はそう古くからのことではなかったらしい。 少なくとも近世にまで遡れば、ここでも序列はやはり一ノ御前・ニノ御前の呼称通り、左殿をもつて先とするふうであったことが知られるのである。

 たとえば天保四年
(1833)の『出雲神社巡拝記』には 「三保関、三穂両大明紳、祭神一ノ宮みほつひめの命、ニノ宮ことしろぬしの命」 としており、享保二年(1717)の『雲陽誌』にも 「美保神社、三穂津姫・事代主命の鎮座なり」 としている。 さらに古く吉田兼倶の『神名帳頭註』にも 「島根郡美保、三穂津姫也。 一座事代主」 とあるので、主祭神は三穂津姫の方のみであつた。 地元のものとしても承応二年(1653)の『懐橘談』には 「高皇産霊尊子三保津姫は大己貴命娶り給ふ。 三保の明神是なりといへり」 と、ただ三保津姫命の御名をあげているのみである。

 こうしてこの社の祭神が古くはむしろ、三穂津姫命の方を主体とし、併せて事代主命を祀っていた。 では、いつごろから今のようになったかというと、たとえば水戸の『大日本史』の神祇十八、神社十三の美保神社の條に 「杷御穂須須美命、風土記。 按風土記妙、配祀大穴貴命・奴奈宜波比買命。 或云、祀事代主・三穂津姫二締、未魚執是」 とあり、地元のものとしては幕末の横山永福の『出雲風土記考』に 「事代主神に三穂津姫を祭りしなり」 と記しているので、およそ幕末ごろから事代主命を主とするようになってきたものではないかと考えられる。

 ところで、この社の祭神に関しては、もつと根本的な問題がある。 それは事代主命・三穂津姫命といふ神名が出雲国風土記にはどこにも記されていないということである。 そして風土記の美保郷の條には 「所造天下大神命、娶高志国坐神意支都久辰爲命子俾都久辰爲命子奴奈宜波比売命而令産神御穂須須美命、是神坐矣。故云美保」 と記されているということである。
 すなはち、ここは所造天下大神大穴持命と奴奈宜波比売命とのあいだに生れませる御穂須須美命の鎮まりますところであつた、さればその美保郷の地名を負ふ美保の社の主祭紳がこの御穂須須美命と無縁であるはずはない。

 岸崎左久次は天和三年
(1683)の『出雲風土記鈔』で 「併祭神御穂須須美命与御祖大穴持命、及御母奴奈支智比売命而、言三社大明神是也」 としているが、その三社大明神という社号のことはともかく、風土記をもとにする『風土記鈔』がかく御穂須須美命を主祭紳と考へるのは当然のことといはねばならない。
 しかるに、これが前述のごとく、中世のいつごろからか三穂津姫命・事代主命の両神にとつて代わられるのである。

 しかし風土記のころにはもつぱらこの郷の祖神たる美保須須美命を祭神とするものであつたろう。 それがやがて記紀神話の下降に從い、あの国譲りの話で有名な三穂津姫・事代主の両神をもって祭神とするに至り、さらには主として事代主命の方をもって祭神とするに至つたものと考へられる。 そして想像すれば、これにはあの福神としての夷神信仰の普及が興って力あったものと思われるのである。 夷神をもってわが事代主命のこととし、かつ大黒天とともに福神として祀るふうは中世に始まり、次第に深く民間に深透するに至ったが、現在では神社当局としてもこの考えを積極的にとり入れ、その頒布物に「ゑびす様総本宮」の語を入れるに至つている。




 美保神社の祭神は、風土記の記すごとく初めは美穂須須美命であったと考えられる。 しかし、現在は事代主命と美穂津姫の二神を祀っている。
 これは「古事記」の国譲り神話の中に、事代主命が御大
(みお)の御崎で鳥の遊び、魚取りをしておられる事が見え、又、「日本書紀に」に、国譲りの後、高皇産霊神の御女、美穂津姫命を大国主命の妃神とされたことが見えているから、「記紀」の国譲り神話に基づいて、祭神の変更がなされたものと思われる。

 このように、地方神から皇統神への祭神の変更は、中央集権の確立によって、皇統中心の信仰体系が地方に及んでいった事を示すものであるが、この祭神の変更をいつの時点にするかは、今のところ明らかではない。
 なお、美穂神社は、その後美穂関が港津として発展するにつれ、信仰圏を広げていったものと思われる。

 美穂須須美命は、美しい稲穂の実りを進める神との解釈もあるが、須須を見る神、即ち北陸の珠洲(石川県)のあたりを守る神と解する事もできよう。 このような例から、島根半島東部と北陸地方との間には、古くから交渉のあった事が判る。(気多大社)

 しかし、出雲から越へ積極的に進出したのか、その逆であったかは、現時点では明確ではない。

−式内社調査報告より−


杵築大社   熊野大社   佐太大社   能義大社
 出雲の国   神魂神社   加賀神社   美保神社  日御碕神社

  神社  話題  登山  今立町