熊野大社(くまの)
◆島根県八束郡八雲村熊野二四五一番地

御神紋     二重亀甲に剣花菱 (出雲大社と同一)

社名

 クマノニマスカミノヤシロ。 九條家本・武田家本・吉田家本とも 「熊野坐神社」 と記している。 また吉田家本には右肩に 「一宮」 と注記している。 風土記にいう 「熊野大社」 に相当することはいうまでもない。 近世には多く 「熊野社」 あるいは 「熊野大神宮」 と記され、この大社の上手二町ばかりのところに、紀州から勧請した同名の社ができたので、その方を 「熊野権現」 この方 を「熊野庄伊勢宮」 と呼ぶようにもなった。
 明治になり、『特選神名牒』 では 「熊野坐神社」 と記され、次いで 「熊野神社」 となって固定した。 昭和五十二年、これをまた改め、風土記の昔に返って 「熊野大社」 と改称して今日に至っている。
 熊野のクマは 「隈」 の意と解するのが妥当であろう。 つまり隈々しいところという意である。 いずれにせよ、これは地名であって、同様の地名のところは、古代においてすでに二、三に留まらなかった。 式にも熊野という名の神社は、出雲・丹後・越中・近江・紀伊の五ケ国に見えている。 


祭神
 風土記の意字郡出雲神戸の條に、「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」 とあり、延喜式に収める 「出雲国造神賀詞」 に 「伊射那岐乃日真名子加夫呂岐熊野大神櫛御気野命」 とあるので、古くこの大神は伊弉諾尊の御子で櫛御気野命と称する神であると考えられていた。  「櫛」 は 「奇」 であり、「御気」 は 「御食」 であろうから、その意は要するに霊妙なる御食津神ということになり、さらに切りつめれば穀霊ということになってゆく。

 ところが、このクシミケヌノカミを祀る社がここにもう一社あり、同じ意字郡四十八座の中に 「山狭神社、同社坐久志美気濃神社」 と記されている。 この山狭神社と同社坐神社とは、出雲国風土記では 「夜麻佐社」 「夜麻佐社」 と、意字郡の社名列記の條の第二位と第十二位とに別々に記されている。 この両社は、その社名をともに「山狭」としている。 鎮座地は山狭地区、すなわち現能義郡広瀬町の山佐地区であったことは疑いない。 現在該地には、上山佐と下山佐とに共に 「山狭神社」 と称する社があるが、社伝ではこれが風土記以来の山狭両社の裔であるとなっている。
 ところで、山佐といえば天狗山、すなはち風土記にいう熊野山の山麓にあたっている。 ただこの方はその東麓であって、熊野とはちょうど反対の方向になっているが、同じ熊野山から流れ出づる清流のほとりであるという点においては同じである。

 地図を見ればわかるように、熊野山から流れる水は、西へ落ちては意字川となり、東へ落ちては山佐川となって、やがては飯梨川に注ぐ。 その水上に近く、西には熊野大神の社があり、東には山狭の神の社があって、それがともに奇御食野神と称へられていたということは、けだし偶然のこととは思われない。

 熊野坐神社の祭神は古く櫛御気野命といわれていた。 ところが、後になるとこれが素盞嗚尊に変るのである。 それはすでに旧事本紀の神代本紀に 「建速素盞嗚尊坐出雲国熊野・杵築神宮矣」 と見えているから、かなり古くからのことであったろうと思われるが、これに始まって後永くその主祭神は素盞嗚尊であるとされ、やがては櫛御気野命とは素戔嗚尊の亦の名であるとする説まで現れるに至った。随神門
 天保四年
(1833)の 『出雲神社巡拝記』 には 「くしミけぬの命と有ハ則すさのをの命の御名也。 天照大神ハ伊勢を本津大宮とし玉う。 須佐之男ノ神の本津大宮ハ此御宮也」 と説いている。

 しかし、等しく伊弉諾尊の真名子の加夫呂岐であるからとて、それだけでこれを同神とするわけにはゆかぬはずである。 たとえば 『長寛勘文』 に引く 「初天地本紀」 にも、「伊射那支尊(中略)陸上時、身体左肩忍奈豆流時成出来神、名加己川比古命、右肩忍奈豆流時成出来神、名熊野大神加夫里支名久々彌居怒命、自髻中成出来神、名須佐乃乎乎命、三柱王等是也」
 とあり、熊野大神と須佐乃乎命とを別押として考える伝承もあったのである。

 その理由は明らかでないが、あえて想像すれば、出雲国造の西遷に伴う杵築大社の発展と無関係ではあるまいと思われる。 しかし明治になり、古代への復帰が叫ばれる時世になると教部省の 『特選神名牒』 では 「熊野坐神社、祭神神祖熊野大神櫛御気野命」 と記したが、今日の 「明細帳」では、結局 「祭神須佐之男命、亦御名神祖熊野大神櫛御気野命」 としている。
御祭神

伊射那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまぬのおおかみ くしみけぬのみこと)
由緒
 斉明紀五年(659)の條に 「是歳、命出雲国造修厳神之宮」 とある。 出雲国風土記によれば、当時の出雲国には「大神」と称える祖神四柱あった。 すなわち、この熊野大神と、意宇郡野城駅の條に見える「野城大神」、島根郡と秋鹿郡とに見える「佐太大神」、そして随所に散見する「所造天下大神」すなわち杵築大神の四柱である。 この熊野大神は古代出雲における四大神の一であった。 風土記の社名列記の條を見ると、熊野と杵築とについては「熊野大社」 「杵築大社」と記されている。 この両大神の場合は社としても大社扱いにされていたということが知られる。
 また、延喜式の式部上によると、「謂、伊勢国飯野・度合・多気、安房国安房、下総国香取、常陸国鹿島、出雲国意宇、紀伊国名草、筑前国宗像等郡為神郡」 とあって、ここに出雲では意宇郡が神郡と定められた由が見えているが、これは熊野大神をまつるためのものにほかならない。


 文徳実録仁壽元年(851)五月二十八日の條には「授出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神、紀伊国従五位上熊野早玉神熊野坐神並従二位」とある。 次いで貞観九年(867)四月八日の條には、この出雲の両神には正二位を授くと見えている。 その序列は、終始熊野をもって首位とし、杵築をもって次位としている。 地元にあっても、中央から見た場合にしても、常に熊野坐神社を国内第一の社とし、杵築大社をもって次位の社とすることに変りなかった。 ところが、中世から近世へと下るにしたがい、熊野大社の名はほとんど出てこぬようになるのである。 
 その最も大なる因は、この熊野・杵築両大神をともに祖神として斉き祭る出雲国造家が、意宇郡から出雲郡に移住したということにある。 出雲国造家が、古く意字郡を本貫としていた。 それが現在の大社の地に遷るに至ったが、延暦十七年(798)の国造郡領兼帯の禁と無間係ではあるまいと思われる。 いずれにせよ、国造家の本拠がもともと意字郡であったればこそ、その意字郡の奥所に鎮まりますこの大社を国内第一の大社とし、西方十余里の地に鎮まります杵築大社は、これを第二の大社としていたわけである。 しかるに国造家の本拠地が西へ遷った。 さればこの両大社の関係も、それにつれて反対にならざるを得なかったわけである熊野大社拝殿

 このようにしてその首位の座を杵築大社に譲ることとなった熊野大社は、つぎに紀州熊野からの攻勢をうけることになる。
 周知のように、紀州の熊野神社は古代末以来朝野の尊信を受け、かつは御師の活動によって全国にその信仰を扶殖するが、やがてその活動がここ出雲の熊野でも見られることになった。 その正確な年代は明らかでないが中世のことと想像される。 とにかく、ここにも紀州系の熊野大社ができ、しかも、それが上位に鎮座することになった。 かくてこの方を上ノ宮といい、これに対して旧来の方を下ノ宮ということともなったのであるが、これでは下ノ宮の立つ瀬がない。 そこで下ノ宮ではついにその主祭神を天照大神とし、これによってこれは 「伊勢宮」 とも呼ばれることになったのである。 享保二年
(1717)の 『雲陽誌』に 「速玉・事解男・伊弉冉三神をあわせまつりて上の社という。 天照大神・素戔嗚尊・五男三女を合せて十神をまつりて下の社とす。 世人、上の社を熊野三社という。 下の社を伊勢宮という」 とみえている。

 上ノ宮は三社から成り、中ノ社に伊弉冉尊、左ノ社に速玉男命、右ノ社に事解男命を祀り、境内末社として八所社・五所社・久米社・稲荷社を設けていた。 これに対して下ノ社では本社一棟を中央に据え、その対面の下方に末社稲荷神社を設けていた。

 明治三年、神社整理が行なわれ、その結果に基づいて同四年、下上両社を一社として社名を熊野神社とし、社格は国幣中社とせられた。 次いで同十年、上ノ宮を伊邪那美神社とし、これと下ノ宮前面の稲田神社とを攝社とし、要するに熊野神社を旧来の下ノ宮一本としたが、同四十一年に至ると政府の神社統合政策を全面的に受入れ、この熊野村内の群小社をことごとく前記二攝社に合祀し、同時に伊那那美神社を本殿の方面に遷した。 大正五年には国弊大社に列せられたが、八年にはそれまで前面にあった稲田姫神社を本社の方面に遷し、境内を整備し、正遷宮を執行し、かくして現在見る結構の基礎をつくった。
神職
 風土記や 「出雲国造神賀詞」 を通じて知られるごとく、当大社の司祭権はもともと出雲国造そのものにあったはずである。 しかし国造家の西遷に件い、やがてこの地なりの社家が興ることになった。 中世以降の文書に現れるところ、それは鈴木氏となっているが、のちこれは熊野氏と改称する。 いまもその裔は現地に留まっており、系図によるとその祖はやはり神代に始まるもののようになっている。 しかし、周知のように、この鈴木という姓は多く紀州熊野に始まる、ここに上ノ社がやはりその紀州に始まっていることを考えれば、その間に脈絡の浅からざるもののあることを感ぜずにはおかない。 ただし、現存社蔵文書の示す限りでは、鈴木氏は上下両社をともに所管するものとして一貫している。
 寛文十一年(1671)の「意宇郡熊野村伊勢宮頒坪付帳」によると、「社人屋敷方」 として 「別火・宮太夫・皷取・一ノ神子・ニノ神子・三ノ神子・亀・宮守」 の名が見える。 別火とは主務者、皷取は伶人、亀は亀太夫の略で、かの出雲国造火継式、および年々の新嘗会の火鑽臼・火鑽杵を調製し、祭儀にあたっては、いわゆる亀太夫神事を担当するものであった。鑽火殿
 かくしてこの社では代々鈴木氏が主管者として臨み、「熊野別火」 といわれてきたが、明治になり、国家管理時代に入ると宮司は官選となり、明治四年、国学者中村守手が宮司に任せられ、以後、木村・有沢・熊野・大島・小林・渡辺と替って昭和の敗戦に至った。 戦後は渡辺宮司が退いた後、須佐神社の須佐宮司がこれを兼ね、現在では出雲大社の千家国造が兼ねている。


祭祀
 千家俊信の 『出雲国式社考』 に、当社の 「祭日は、元日御饌を備へる。十三日毎日神事。三月五日神事。同十二日種替の神事、籾御饌・御神楽。夏至日神事。四月八日田打神事。芒種日作開神車。六月晦日名越神事。七月吉日爪剥神事。同七日虫干神事。九月十四日大祭礼、大御饌を奉る、神楽相撲あり。十一月冬至神事。同中卯日新嘗会、国造大庭社にて是を祭らる。大祭礼なり。十二月甘日神事、同廿八日御狩神事等也」 とある。
 太陽暦施行以来、十月十四日を例祭として今日に至っているが、そのほか吉伝祭の名のもとに、四月十二日には御田植神事と攝社稲田姫社の御櫛祭、八月一日には攝社伊邪那美神社の桃祭、十月十五日には鑽火祭、十一月十五日には御狩祭を行なっている。

 このうち鑽火祭は出雲大社へ火鑽臼・火鑽杵を発遺する神事であるが、この地で行なうようになったのは明治以後であり、維新以前には霜月中卯日に大庭の神魂社で行ない、そのとき当社からは亀太夫が新調の火鑽具を持参するだけであった。
 なお、このほか国造代替りごとに行なわれる火継式も、明治以後、千家国造家ではこの社で行なうようになっているが、北島国造家では依然として大庭の神魂神社で行なっている。
火継式  
火とはタマシヒのヒである。 出雲国造の身まかるときはその火が消えたわけである。 そこで後継ぎの新国造は国造を襲職するとき、新国造自身の火を新しくきり出さねばならない。 しかも古伝によれば出雲大社の祭祀は、天穂日命(国造)がこれにあたるべく、天つ神の仰せとしてきめられているのである。 そして天穂日命は意宇郡の熊野大神櫛御気野命から授けられた火燧臼・火燧杵で鑽り出した火で潔斎し大国主神に奉仕することになった。
 こういうわけで国造が死去するや、その嗣子は一昼夜をおかずただちに、古代より伝わる火燧臼・火燧杵をもって熊野大社に参向する。 そして鑽火殿にて神火を鑽り出し、その火で調理した斎食を新国造が食べることによって、初めて出雲国造となるのである。

 こうしてひとたび鑽り出したその火は、その国造在世中は国造館内の斎火殿
(お火所)で厳しく守り、これを絶やしてはならない。 国造は終生この神火で調理したものを食べ、家族といえどもこれを口にすることは許されない。 こうして天穂日命は、神代以来出雲大社の祭祀にあたってきているのである。

社殿
 本殿に幣殿・拝殿を接し、別に舞殿・鑽火殿・隨神門各一棟、境内攝社二棟、その他社務所・斎館・休憩所・資料館各一棟を有する。
 本殿は大社造で、現存のものの軸立は昭和二十三年。 従来は柿葺であったが、昭和五十三年の葺替えで鋼板とした。
 拝殿は銅板葺、床張り、薄縁敷き。 舞殿は高床造、柿葺。 鑽火殿は間口三間、奥行二間の切妻造、茅葺で、中に火鑽臼・火鑽杵を置く。
 攝社伊邪那美神社は、明治四十年に上ノ宮の本殿を移築したもので、七尺四方の大社造変態、現在銅板葺。 稲田神社はもとの速玉社の本殿を移築したもので、四尺五寸四方の大社造変態、現在銅板葺。



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  神社  話題  登山  今立町

−式内社調査報告より−
−出雲大社(千家尊統)より−