加賀神社(かか)
◆島根県八束郡島根町大宇加賀一、四九〇番地

社名

 カカノカミノヤシロ。 九條家本・武田家本は、いずれも「加賀神社」とし、吉田家本は 「加賀(カカノ)神社」 と傍訓する。 出加賀神社雲国風土記は、岩波日本古典文学大系本・岩波文庫本ともに 「加賀の社」 と訓じている。 本文加賀神埼の割註で大系本は 「御祖支佐加比売命社」 、文庫本は 「御祖支佐加比比売命社」 とする。

 『出雲国式社考』は加賀浦の 
「窟戸(くけど)大明神」、『農政箚記』・『雲州式社集説』・『出雲神社巡拝記』は 「潜戸大明神」、『神名帳考證』は 「加賀神社」、とする。

 萬延元年
(1860)の額板に 「潜戸太神宮」、同年の記録に『潜戸太神宮外遷営行列記』がある。 萬治二年(1659)の棟札には 「誕生山潜戸天照太神宮」、天和二年(1682)には 「天照大神大神宮神社」とある。  『出雲風土記俗解鈔』には、「久気戸大明神」、「窟戸大明神」 ともある。 『出雲風土記鈔』・『出雲風土記解』には 「窟戸大神」、とある。
 『雲陽誌』は 
「潜戸(くけと)太神宮」、『古史伝』は 「御阻支佐貝比売命之社」、『懐橘談』も 「御租支佐加比比売命ノ社」とする。

 明治十四年一月書出の 「神社明細帳」 にも「加賀神社」とあり、『八束郡誌』も 「加賀神社」 としている。
 現在は加賀神社と公称している。

所在

 字名を向田という。 嶋根郡加賀村、その前は嶋根郡加賀郷加賀浦であつた。 当社は、多くは潜戸大明神と称したように、出雲国風土記に記された社であった。
 窟は加賀の潜戸
(くけど)と称され、大町桂月も
     「加賀浦の潜戸を見ざるものは、末だ共に出雲の山水を語るに足らざるなり」  と激賞している。
 小泉八雲も『日本印象記』に詳しく記している。 国の名勝天然記念物に指定されている。

 加賀神社は、のちに潜戸の神窟から海路で南東に半里の現在地に移したという。  現社地は神前を澄水川が流れ、南東に加賀連田を望み、老樹を背にした神境である。 川を挾んで新しい島根町の庁舎が向き合つている。
祭神

 出雲国風土記は岩波日本古典文学大系本に、神魂命(かみむすび)の御子 「支佐加比売命」、「枳佐加比売命」 とする。 古事記に神産巣日之命とあり、キサ貝比売と蛤貝比売とを遺はす説話がある。 ウムカヒは大蛉(蛤貝姫)であるのに対して、キサカヒは蚶貝(赤貝姫)である。加賀神社 拝殿 本殿
 『出雲国式社考』には、今は「伊射奈枳命、伊射奈美命を祭るといへり」と記している。 

 『特選神名牒』は祭神を記載せず、神社明細帳に伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大御神・枳佐加比々売命・猿田毘古命とあるのは信じがたいとし、出雲国風土記に拠って、
 「実は、枳佐加比比売命の社なるべきを佐太大神も後に合せ祭り、又、枳佐加比比売の御祖とある伊弉冉尊、又、其縁にて伊弉諾尊を祭りそへしにか疑はし」
 「式社考に、今は伊射奈只命伊射奈美命を祭るといへり、又、俗伝に伊射奈只命伊射奈美命天照大御神を此加賀潜戸にて産玉ふ云云。 されど風土記の伝へにしたかへれば非なる事論なしと説へり、さて此佐太大神を猿田毘古神と心得るより明細帳祭神五柱の内猿田毘古神を掲げたる事」
 云々とし、「尚熱く考ふべし」 と断定を避けている。

 『八束郡誌』は、「祭神 伊弉諾尊 伊弉冊尊 天照大神 枳佐加比姫命 猿田彦命」、「合祀 正八幡宮 祭神 誉田別命 大正二年四月合祀」 としている。

境内社について、『八束郡誌』の記載は次のとうりである。
東末神社   祭神 天児屋根命外二神
西末神社   祭神 天忍穂耳命外七神
日御崎神社 祭神 大日霊襲實命
恵比須神社 祭神 大国主命 事代主命(明治四十二年移転)
熊野神社   祭神 伊弉諾命(明治四十年移転)
 社蔵の 「由緒記」 によれば、社伝として 「祭神 枳佐加比比売命 合祀 佐太大神 伊弉諾尊 伊弉再尊 天照大神」 としているが、「佐太大」 の三文字は朱書で、もとは墨書で 「猿田彦」 の見セ消シである。 また、明治十四年の 「神社明細帳」 には「祭神 枳佐加比比売命 猿田彦神 伊弉諾尊 伊弉再尊 天照大神」 とある。 宝暦三年(1753)と同九年の社伝の縁起によれば、

 「当三社之事、中社者伊弉諾・伊弉冊両神・天照大神御坐、東乃社天児屋根尊・姪子尊・素戔嗚尊坐也、西社天照大神之御子五男三女正哉吾勝尊・天穂日尊・天彦根之尊、亦思イ姫メ命・湍津姫命・市杵嶋・瀛津島姫命之御坐、惣而当社神合一百二十一神坐ス奈利」 とする。
祭神

伊弉諾尊 伊弉冊尊 天照大神 枳佐加比売命 猿田彦命
由緒

 出雲国風土記によると
 『ここに窟がある。 いわゆる
佐太の大神のお産まれになった場所である。 お産まれになるそのときになると、弓箭が亡くなった。 その時枳佐加比売命が祈願して、「私の御子が麻須良神の御子であるなら、亡くなった弓箭よ出て来い」 と祈願された。 その時、角の弓箭が流れ出た。 その時お生まれになった御子は詔して、「これは私の弓ではない」 と投げ棄てた。 また金の弓箭が流れ出てきた。 これを持ち取って、「なんと暗い窟であろうか」 と仰せられ、岩壁を突き破って射通しなされた。 云々
 その時光が加加とあかるくなった。 よって加加
(かか)という。』 とある。 (射通した人物については、読み方に諸本誤脱がある)

 古い時代には、潜戸そのものが神社であつた。 出雲国風土記にも 「加賀神埼 即有窟 高一十丈許 周五百二歩許 東西北通」 とある。 加賀の神埼は潜戸鼻のことで、洞穴は加賀の潜戸と称されている。 いつの時代か未詳であるが、神窟内に鎮座していた加賀の社を南東二〇町余の現在地に移したという。 しかし、現社地へ移遷後も 「潜戸(窟戸)大明神(明神)」 と称されていたようだ。 
 風土記にもいうように、加賀の神埼、の窟にキサガヒヒメを祀つていた。 それがいつの頃か不明であるが、恐らく中世以降に他の諸神を合わせ祭るようになつたようだ。 
佐太大神の産生、御租の由縁などによるものであろう。 さらに佐太大神を猿田彦神とする考へなどの影響もみられる。

 一説に、伊邪那岐神・伊邪那美神が天照大御神を加賀の潜戸にて産み給ふとの信仰もあつた。 現に『出雲神社巡拝記』は、祭神を 「きさかひゝめの命」 と 「あまてらすおほミかミ」 とし、
「さるだひこの命此所にて生れ玉ふ神跡也。 又広く此辺も加賀郷と云う。 則佐太大神此くげどにて生れ給ふ時、御母きさかひ娘命くらき岩や成と宣ひて、金弓にて射玉ひへば、明りさしてかゝやける故にかゝと云う。 佐太大神とは則さるだひこの命にて、今の秋鹿郡佐陀大神是也」 と記している。


杵築大社   熊野大社   佐太大社   能義大社
出雲の国   美保神社   神魂神社   加賀神社  日御碕神社

  神社  話題  登山  今立町


−式内社調査報告より
祭祀加賀神社 拝殿

 例祭日は六月二十一日・九月二十一日〜十月二十一日。 十月二十九日は 「乙九日祭」 であるが、旧例祭にあたる。
 十月二十一日の例祭には社人が神饌献上をつとめる。 『神祇志料』が神社明細帳に拠つて、「六月、九月二十一日祭を行ふ」 と記しているくらいで、諸書には祭祀に関する記載はない。 『八束郡誌』には 「祭日十月二十一日」 とし、『特選神名牒』には「六月九月二十一日」とある。

 当社では二十年式年遷宮が行なわれている。 伊勢皇大神宮と同様に二十年毎の遷宮をするので、土地の人たちは当社のことを「伊勢さん」と俗称していた。 今、近年の遷宮を見れば、萬延元年
(1860)・明治十三年(1880)・同三十三年(1900)・大正九年(1920)といふように、二十年毎の遷宮行列記が残されている。

 旧暦時には六月、新暦になつてからは七月に仮殿への遷宮が執行されるが、この神事を外遷宮とも、また出遷宮ともいう。
 萱の屋根の葺き替へが終了して十月に正遷宮が執行される。 平成十二年が式年遷宮の年にあたつている。
太陽崇拝

『出雲国風土記』では、洞窟の中にさした金の矢によって、枳佐加比比売命は妊娠し、佐太の大神を産んでいる。 谷川健一氏は『出雲びとの風土感覚』で、

 加賀の潜戸をおとずれて、そこでわかったことは、洞窟が東西に向いているという事実であった。 洞窟の西の入り口に舟を寄せてみると、穴の東の入り口がぽっかり開いている。 そのさきに的島とよばれる小島が見える。 その的島にも同じように東西に貫く洞窟があって、つまり、加賀の潜戸と的島の二つの洞窟は東西線上に一直線に並んで、もし的島の東から太陽光線が射し込むとすれば、その光線は的島の洞窟を貫き、さらに加賀の潜戸の洞窟もつらぬくということが分かった。 

 二つの洞窟の方向は、真東ではなくやや北の方にずれている。 したがって、それは夏至の太陽がのぼる方向に向いている。 夏至の太陽は的島の東に姿を現し、的島の洞窟と加賀の潜戸を一直線に射しつらぬく。 そのときに、それは黄金の弓矢にたとえられたのであり、太陽の洞窟から、佐太の大神は生まれ出たのであった。

と記している。 古代人にとっては、洞窟は母の胎内であり、洞窟の入り口は、門・鳥居ともいうべきもので、太陽の光がさすということは、日の御子誕生のための聖婚の行為であった。
−天照大神と前方後円墳の謎より−