宝珠山 立石寺(りっしゃくじ)




◆山形県山形市大字山寺
由緒
山寺
 当寺は宝珠山阿所川院立石寺と号し全山の総称で、天台宗に属し、草創は貞観二年(860)慈覚大師が清和天皇の勅命をうけて、建立したものである。

 その後たびたびの火災により記録が焼失し、明らかではないが、鎌倉以後は戦乱の影響をうけておとろえた。 正平十一年(1356)山形初代城主斯波兼頼が山形に入部したとき、立石寺は山形の鬼門(北東)に当るので、山形の守護神として根本中堂を再建したと伝えられている。

 以後、最上諸族の戦争がおこり、大永元年(1521)天童頼長が立石寺を攻撃し、寺領を侵略し、堂宇をこわし、寺中はことごとく破滅した。 天文十二年(1543)当寺三十八世円海がその荒廃をなげき、最上氏に頼り、八月比叡山根本中堂の常燈火を立石寺根本中堂に移し、慶長時代に諸堂を修築した。 その後再び堂宇の破損した享保年間、(1716−35)当寺五十三世寛雄が諸堂の修理再建につとめ、寺運再び盛んになった。当寺六十五世情田が私財千八百両余を投じて、参道ならびに諸堂を修改築し、面目を一新今日に至っている。
開祖慈覚大師
山門 奥の院まで800段
 立石寺の開山・慈覚大師は、名を円仁といい大師号は清和天皇から日本で最初に賜わったおくリ名である。

 栃木県下都賀郡岩舟町の豪族・壬生氏に生まれ、延暦二十一年(802)、大慈寺広智の門に入る。 大同三年(808)比叡山に登り伝教大師最澄について学ぶ。 弘仁七年(816)東大寺で具足戒を受ける。 弘仁十三年(822)師最澄の遷化に遭う。 承和五年(838)六月、円行、常暁らと遣唐使藤原常嗣に従って中国にわたり、開元寺(福建省泉州温陵)において宗叡に学び、承知七年(840)五台山(山西省五台県)において、志遠について学び、ついで長安(西省西安府)に入り、大興善寺翻経院の元政阿闍梨について学ぶ。 さらに青竜寺の義真阿闍梨について胎蔵潅頂道場に入り、その他玄法寺法全、天竺宝月、醴泉寺宗頴に学んだ。

 長安に留ること六年の間に求め得た念誦の教法・経論の章疏など五五九巻、胎金両部の大曼荼羅・諸尊曼茶羅の壇様、高僧の真影、舎利ならびに道具など二十一種に及んだ。 たまたま八四五年(唐会昌五)の法難に遭い滞留することさらに二年、八四七年(唐・大中元)九月帰朝した。

 その後最澄の遺業大成に努めた。 嘉祥元年(848)内供奉となり、仁嘉四年(854)天台座主となった。 著書すこぶる多く1〇〇余部にのぼる。 大師の中国に於ける日記「円仁人唐求法巡礼行記」は、東洋三大旅行記として知られる。

 貞観八年(866)慈覚大師と追諡された。

 大師の東北地方で建立した寺は、嘉祥年中(848−50)岩手県平泉に毛越寺(当時金剛院)、同三年(850)に中尊寺(当時弘台寿院)、仁寿三年秋田県象潟に蚶万寺、天安二年(858)福島県伊達に霊山寺、貞観元年(859)青森県恐山に円通寺、更に貞観二年(860)山形県に清和天皇の勅願所・山寺(宝珠山立石寺)を開創した。
仁王門

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大仏殿・奥之院
納経堂 開山堂
奥之院 奥の院は通称で、正しくは如法堂という。 明治4年火災にかかり翌5年優田和尚が再建した。 本尊は慈覚大師が国々を巡錫される時、いつも背に負うていられた三国伝来の釈迦牟尼仏と、多宝如来の座像で、左右には多聞天、持国天、それに三十三番神、十羅刹女を安置する。
 奥の院に付設し平成三年に大仏殿(左)が建てられた。
納経堂 通称百丈岩の頂上に立っている。慶長四年(1599)山形城主最上義光が蓑和田讃岐守に命じて建設させた。納経堂のうしろは、入定岩、百丈岩ともよばれ、慈覚大師の入定窟が有り、中に慈覚大師のご遺骸を金棺に納め安置されている。
開山堂 慈覚大師の御廟で、「常香」が一千一百有余年絶えることなく今日もなお香煙を遷わしている。
仁王門 奥之院までの中間点に位置し、六十五世情田和尚が嘉永年間(1848−53)に再建した。左右に安置する仁王像は運慶十三代の後裔平井源七郎の作と伝えられている。
山寺の信仰

 山寺立石寺は、平安時代の初め慈覚大師によって開かれた山で、広くこの地方の宗派をこえた信仰を集めている。 この地方では死者が出ると遺骨の一部を立石寺奥の院・納骨堂に納め、供養をしてもらう風習がある。 夜行念仏や磐司祭で奉納される獅子踊りも、先祖の供養の色合いが濃い。

 山寺山内の特有である凝灰岩の岩肌には、板碑型の供養碑がきざまれ、各所にある洞窟、岩陰には多数の木製小型五輪塔、こけら経、笹塔婆、千体仏、小型板碑などがなかば土に埋もれて納められている。 このようなことから山寺に、古くから庶民信仰の山、先祖供養の山として栄え、天台宗の名刹よりも、むしろ死後の魂のかえるべき山として信仰の対象となり、この地方の多くの信仰をあつめたものである。
( 「山寺」案内書より )